「ねぇ、今日は帰ってくるの」
ベランダ側の窓のすみに腰を掛けて煙を吹かす彼は、眠たげな目を細め無表情で整った顔を天井に向ける。微かに動く喉仏に目を奪われ、息をのむ僕を見透かすように彼は鼻で笑った。彼の表情の筋肉がなめらかに動いたのを見るのは、昨日の夕方以来だ。
男性的な喉仏の数センチ下には、赤く生々しい痕が無数に散らばり独占と執着の意が込められている。痛々しくも映るそれは、誇らしげな表情をしていて僕に微笑んでいるように見える。そんな顔をせずとも僕はもう知っている。
灰皿を手元に置くついでに、視線と天井の間に割って入った。唇を重ねても変わらぬ美しい顔は視線すらずれることはない。僕を映す瞳は綺麗な色をしている。唇が離れると煙が顔をまとい、ふわっと頬を撫でるように天井に向かって流れてゆく。いつもの香りに包まれ、心地いい気分に酔いしれる。煙たがられるこの香りは、僕には甘い香水にも洗われるソープにも思える、愛しい君のにおい。
床に目を落とすと、股の間には昨日注ぎ込んだ精液が流れ出ていた。意味を持たないそれらは、途方もなく広がりその場にのさばる。君はそんなことを気にも留めず、煙をふかし僕に浴びせた。最後の一息が終わると、立ち上がりソファへと向かった。足を流れるそれを無視して、無造作に置かれていた服を身に着ける。
そして、彼は玄関へと向かった。
僕は、もう知っている。
昨夜のベッドで君が君でなかったことを。表情を変えることもなく、愛を奏でることもない。無臭で色のない、君の体はもう僕のものではなかったことを。
精液と君の混ざった香りは、君の色気をより一層引き立てる。その中で僕にだけ与えてくれた甘美なひと時を、君はどこに置いてきたの。やっと彼と同じくらいまで、手に馴染んだと言うのに。
「もう一度…最後でいいから。今日は帰っておいで」
もう僕のものでない君の体を、どうすることもできないことは知っている。何度抱こうとも、縛り付けても、痕をつけても、あの君を僕にはもう見せてはくれないんだろう。
それでもいいと思った。僕のものでないことを知らせるセックスを君がもう一度してくれるのなら、僕は君を抱くだろう。僕には、消えない彼の香りを思い出すことが出来るから。脳内に反芻させながら、もう一度だけ僕の知らない体を抱こう。
彼のかわりだった君が少し変わってしまうことくらい、僕は大丈夫だと思うよ。
部屋に残ったにおいを胸いっぱいに吸い込んで、いとしい人を想像する。
床の水たまりに頬をつけ、彼の体を欲した。
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